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祖父は抗えず

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 祖父は店を祖母に任せると、町はずれにある”人嫌い”な金持ちのもとに勤めだした。なんでも、主人に気に入られたらしく、屋敷の管理をするように頼み込まれたらしい。幼かった千景は、かねてより祖母の方が店を切り盛りしていたと認識していたため、そのことについてあまり深くは捉えなかった。

 祖母は何事もそつなくこなす女性だった。聡明で、所作も美しく、そして芯のある強さを湛えていた。彼女が何もかもうまくやっていたのだろう、おかげで祖父のほころびは、家族に対して長らく”隠す”ことに成功していたのだ。

 しかしそれは、やがて許容値を越す。

 夕方、小学校からの帰り道。千景は竹やぶで奇妙な人影を見た。金切り声を上げながら、あちらへフラフラ、こちらへフラフラ。ガサガサと落ち葉の音が響く。千景は声もあげられず硬直をした。痛いほどにランドセルの肩紐を握りしめる。やがて千景の前に姿を現したのは、発作を起こした祖父だった。

 駆けつけた祖母がその場をとりなしたということは記憶しているが、千景はその時のことを詳しく覚えていない。目の前に現れた、血走った目をした祖父を見て、気絶したのだろう。物腰の柔らかい、祖母や父に言い負かされることも多かった”優しいおじいちゃん”。彼の控えめな笑顔とは程遠いその狂気は、十分にショックだったろうと考えられる。

「おじいちゃんのこと、お父さんとお母さんには、絶対に黙っていなさいね」
 祖母にはそう、無理やり約束させられた。寝床に来た祖母の表情は、逆光で見ることが叶わなかった。

 ――祖父の凶行は、それからもたびたび目にすることになった。一度見られてしまったから、祖父か、あるいは祖母の気が緩んでしまったのかもしれない。

 パニック状態に陥った祖父が土間に転がり込んでくる日もあった。庭で狂笑し始める時もあった。時期を同じくして、祖母が千景の両親に、店番や品の買い付けをお願いすることが増えた。かといって祖母が家の番をするわけでもない。彼女もまた、千景の知らないどこかへ通い詰めているようだった。

 ひとりで留守番をしている時、千景は不安でたまらない。どうか、今日のおじいちゃんは”まとも”でありますようにと、そう願っていた。

「大きくて、大きいんだ、わかるか千景、大きいんだ、大きい、大きくて、大きいんだよ」
「うん、うん」
「大きくて、大きくてな。千景よりもうんと大きい。千景はああなってはいけないよ。大きい、大きい、大きいんだ。大きくて、大きくて、大きくて…」
「そんなに大きかったの?」
「ああ、大きい、大きい、大きい…」
 繰り返される祖父の話は厭なものであった。しかし、千景が相槌を打たなければ、祖父は掛け軸に話しかけ続けてしまう。

「千歳、そんなに小さくなってまぁ、どうしたんだい。小さくても君は愛らしいね」
「おじいちゃん、僕はおばあちゃんじゃあないよ」
「まぁまぁ喋れるのかい。かわいいな、かわいいねぇ、抱っこをしてあげようね」
「やーめーてーよ」
 祖父が何かを違えているのは明白だった。しかし、千景が相手をしなければ、祖父は立てかけた箒を祖母のように扱ってしまう。

「おじいちゃん」
「おじいちゃん」
「大丈夫?」
「大丈夫?」
「大丈夫じゃないね」
「大丈夫じゃないね」
「おばあちゃーん!」
「おばあちゃーん!」
 千景に出来ることは何もない。しかし、千景が相手をしなければ、祖父はラジオに対して鸚鵡返しをしてしまう。

 そんな狂った祖父を、お父さんとお母さんに知られてはいけない。それは”千景”と”千歳”が交わした約束である。

 月日は流れる。千景は背が伸び、正しく歳をとる。
 彼が高校生になる頃、祖父よりも先に母が亡くなった。父はすっかり仕事に打ち込むようになり、いまだに祖父は町はずれの館に雇われ続けていて、そして祖母の書斎には本が増えた。

「おばあちゃん、古本屋でもやる気なのかい」
「……千景ちゃんはこの本、読んではいけませんからね」
「何語か分からないしな。壺でも見てた方が有意義だ」
「ふふ、お父さんに似てきたじゃないの」
「父さんは壺より置物の方が好きでしょう」
「家にこもってないで、お友達と遊んできたらどう?」

 祖母の提案に、千景は曖昧な笑みを浮かべるだけだ。

 数年前の出来事だが、”お友達”と遊んでいる時に、狂った祖父と会ってしまったことがある。判別できない言葉を喚きながら千景の首に手を伸ばす老人。その形相に友達は、そして千景は何もできない。すぐに”町はずれの館の主人”が追ってきて、祖父を千景から引き剥がしてくれた。そのまま主人は千景に土下座をすると「夜須昌さんにしか頼めないんだ、頼む、どうか彼をこのまま、私に貸して欲しい」と拝み倒す。

 嗚呼、異様な光景である。涎を流して喚く祖父。それよりも年上の、皺くちゃな富豪が、”少年”に土下座をして頼み込む。そんなものを見てしまった”お友達”は、千景から離れていくしかない。不気味だからだと皆の目は雄弁に語る。それから千景は、近しい友人というものをつくりにくくなった。

「……遊んでいないで、勉強するよ」
「あら、そう」

 ちょうど勝手口から、ガタリという音がする。今日は”ダメ”な日のようだ。立ち上がろうとする祖母を千景が制し「僕がいくよ」と声をかけた。学生服の襟元を緩め祖父のもとへと向かう。千景は祖母の手ほどきを受けて、祖父を多少なりとも落ちつけられるようになった。

 ――溜息をついて本に目を落とした”千歳”の耳に、”夜須昌”の怒声が聞こえてくる。
 いつもと違う?
 怪訝に思った彼女が席を立つ。

 二兎路夜須昌はよく耐えた。これまで、よく耐えてきた。よく、耐えて、きたのだ。そしてこれからも、これからも、どうかこれからも。
 ……町はずれの屋敷に何が在るかは、誰も知らないし、語りもしない。

 

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