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おとなの家出⑤流れ弾のように突然

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1024f

 フレンチトーストの甘ったるい匂いがキッチンを漂う。安かったけれど色のセンスが良い、フライパンを動かすイチトの背をフツカは眺めていた。頬杖をついて、気怠げな様子を装って。

「ぼくがやるってゆったのに」

 幼い子供のわがままみたいに。イチトは楽しげに肩を揺らすだけで振り返ることはない。
「焦がすだろう?」
「ぼくが何もできないと思ってるんだ」
「今はそこまででも。しかし、焦がすと機嫌を悪くするだろう。フツカの不機嫌は長い」
「もう。今のでもっと長くなるからね」
「困ったな、挽回の術を俺は持たない」

 それぞれ違う色の皿に載せられた、出来立てのフレンチトースト。イチトは自分の取り分に粉砂糖をたっぷりとかける。そもそも卵液に砂糖を存分に混ぜているので、フレンチトーストは焦げやすい。
 フツカはイチトが甘いものを好むから、気まぐれを働かせてフレンチトーストをつくろうとした。それでも今日は断られた。自己嫌悪という名の不機嫌でフツカはイチトにあたる。あたり散らかし続ける。

「ぼくが何もできないと思ってる人ばっかり」
 フツカの悪いところは、自分のことをなんでも他人が分かっていると思う傲慢さ、そしてそれを受け入れさせる奇妙な魅力。
「ぼくだって、兄さんを執事のように扱いたいわけじゃあないんだよ」
 咎める言葉はいつだって誰かの心を突くには何かが足りない。
「俺とて黒焦げのフレンチトーストと執事扱いでは、天秤が傾くことはない」
 どちらもお断りだ、と続けてイチトの口にフレンチトーストが消えていった。健啖家と云うらしい、イチトのような男を。

「……学校で何か言われたのか?」
 イチトの、とうに光が失せた茶の瞳がフツカを射抜く。
「たくさん、いろんなことを、山ほどね」
 軽口になるように気を遣った。フツカは不器用にフレンチトーストを銀のナイフで切り分け、小さな口に放り込んでは懸命に咀嚼する。

「……ルームシェアなんて自立の一歩なのに」
「そうだな、正しいぞ」
 イチトが目を細めてカフェオレを飲んだ。あれに砂糖はどれだけ入っているのだろう。
「なのに皆、兄さんの後釜を狙っているんだよ。兄さんだって危機感を持ってよ」
「俺の後釜とは?」
「この部屋から兄さんを追い出して、代わりに誰かがぼくと住むんだ。そうしたら兄さんは誰と住むというの?」

「であれば今度こそ、ひとりじゃないか?」
 そう言ってから、なにか大切なことに気がついたように、イチトはマグカップを下ろした。
 フツカは嫌な予感を覚える。フツカの予感は当たる。言ってはいけないことを言ったということは分かったが、その原因と結果はフツカにはわからない。いつだってそうだ。

「ひとりの時は、なかったな」
 選び出されたイチトの言葉に、フツカは慎重に探りを入れる。
「……そうなんだ?」
「皇都では父と暮らした後、寮に入った。それからモルグ市だ。フツカと一緒になれたのは、タイミングが良かったな」
「あ、この流れはあれでしょう。前フリってやつでしょう?」
 言葉が導く先はフツカにはわからない。いつだってそうだ。でも悪い予感だけがまとわりつくから必死に言葉を重ねる。
「やだよ、ぼくは出て行かないよ。此処に住んでみたかったんだよ?」
 イチトが此方を見ている。探られている。言葉を尽くせといつも言うのはイチトの方だ。
「だからぼくは兄さんとあの時に会えて……それこそ、ええと、運命だって」

 運命という言葉を受けて、イチトは目を眇めた。
「お前は周りの男女をあしらう術を覚えた方がいい」
 フツカのおでこを優しくデコピンしてから、イチトはさっさと席を立つ。
 何かを間違えたのだろうけれどフツカにはまだ分からない。
 空になった皿、役目を終えたカトラリー。マグカップに少し残っていたカフェオレは、イチトが背を向けている間にフツカが飲み干した。
 甘い。

「わからないな、兄さん」
 あれは雑談だった。イチトがいずれ皇都に帰ると話してから、周りから「次は自分と」と畳み掛けられフツカは「なぁなぁ」で流していた。
 金欠な学生にとって、ルームシェアは手段のひとつ。フツカを誘う利点は、きっと、四六時中作品のレビューを受けられるからだろう。他人を圧迫しない性格をしているから傍らに置いて寂しさを紛らわすにはちょうどよい人物なのかもしれないとも。
 イチトはその点、考えがないようでフツカは心配になる。フツカの人となりをよく知らずに合意してくれたのだから。

 ――少し冷めたフレンチトーストを飲み込み終わったときに考え事が終わる。そしてようやくフツカは『物音』に意識を向けた。

 物音の先。そこに立つイチトは荷物をまとめていて、まるで旅行に行く人の様な佇まいだ。

「うそ、でていくの? あまりにも急じゃない!?」
 イチトの判断が早いことは知っていたつもりだった。だがこれはあまりにも、ジェットコースターに近い展開だ!
「手続きは!? そういうのが必要なんでしょう!? ぼくだってそれぐらいは知っているんだよ。それともぼくをからかっている?」
「からかうものか。わずかな期間だけだ。お前は周りとの付き合いを、俺は自分のあり方を見直したほうがいいと思ってな」
「わずかな期間って。兄さんが家出しちゃうってこと? おとななのに!」
「家出か。しっくりくる言葉だな。何度かやったことがある」

 どうして楽しそうに笑うのかフツカには理解できなかった。原初の泥に似た男は、すくおうとしても手からぬたりと堕ちてしまう。
「ぼくはなにを反省したらいいのか分からないのに?」
 ケンカをしたわけでもないのに、このひとはどうして!

 イチトの背後にある姿見にアッシュグレーの髪の青年が反射していた。ヘーゼル色の瞳は砕けた宝石に似た光を写して揺れる。
 鏡に映るフツカは芸術品のひとつのようだ。そんなものであっても、イチトはたやすく突き放す。

「反省か。強いて言えば、数日間、誰も家にあげなければいいんじゃないか」
「宅配便が来たらかわいそうだよ……」
「玄関先に置いてもらえ。戸締りは、自分ひとりで生きていくことの基本だ。安全な生活においてな」

 警察らしいアドバイスと共に、イチトはあっという間にふたりの家を出て行ってしまった。

「うそでしょう?」
 すぐに電話をかけてみるがイチトは出ないし、しつこく鳴らし続けていたら応答後すぐに切られた。虫の居所が悪い時のサークルの先輩のようなことをする。

「まったく兄さんは勝手だな。泣いて謝っても、ぼくが許すまでは家にいれてあげないくらいは許されるよねこれ」

 問題はひとつ、このあそびに『いつまで』を決めていなかった。
 からっぽの皿を眺めてすぐ「さみしい」と呟くフツカのもとにメッセージの着信がひとつ。
 喜んで開けば、大学の友人からの「遊びにいっていい?」の誘いだった。

 このことだな、とフツカは合点がいき、生まれて初めて自分の手でドアチェーンをかけたのであった。

 
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